FUJII / Blog

放送、通信、防災を経て官民連携を考えるひと。

「無駄」という判断の濫用の分類と考察

働き方改革」なんて言葉が登場するずっと前から、日本は労働生産性がちっとも上がらず、労働者人口が減り続ける中、無駄っぽく見えることを削減することは喫緊の課題のように思える。しかしどうにも周囲に「無駄という判断の濫用」が目立つ気がする。その分類を試みてみたい。

選択と集中」という言葉を誤用しているパターン

ドラッカーの「経営者の条件」をちゃんと読まないでこの言葉をつかって「利益が出ている得意分野の事業に集中して、そうでないことはやめよう」としてしまう日本企業あるある。くわしくはこちらのサイトに引用があるので参照
間違った「選択と集中」で無駄だと思って捨てた事業のせいで滅びた会社の例には事欠きませんが、技術の加速度的発展の中にあって、一見傍流に見える事業を「捨てなかった」ことで生き残れた会社は割とたくさんある。

本業転換――既存事業に縛られた会社に未来はあるか

本業転換――既存事業に縛られた会社に未来はあるか

この本にたくさん例が載っているけど、例えば自社の存在意義を否定しかねないデジカメ事業を頑張った富士フイルムは、結果的にデジカメ事業は競争に勝てなかったけど、医療機器分野のシェアを劇的に伸ばせた。磁気テープ事業も、シリコン全盛期にあえてやめなかったら、一周回ってビッグデータ時代にバックアップ用大容量テープメディア事業として劇的に勝てた。

ヤマハも実は楽器の利益幅は実は薄くて、他の多様な事業が会社を支えてる。NECのPC事業もそもそもの経緯を読むとこういうものの一環だったのかもしれない。今や見る影もないけど。

KPIの設定を誤っているパターン

先日NHK*1「ボクの自学ノート」*2というドキュメンタリーを放送していたけど、学習障害とまでは言えないけど学校で均質的な授業を受けることが得意ではない子が、自習でやっていた自由学習のノートを文化施設学芸員に見せに行ったりしているうちに、才能が開花した、という話だった。
出てきた施設には公営も民営もあり、北九州の文化施設の層の厚さにも感銘を受けたのだけど、川崎市市民ミュージアムが破滅的なことになっている話や、国立大学の壊滅的な状況を引き合いにだすまでもなく、公営施設は「入場者数」とか、わかりやすさ優先のKPIを設定されて四苦八苦している。入場者数で言えば彼は1でしかなく、学芸員が懇切丁寧に対応しているのもKPIにはまったく寄与しない。というか彼のノート自体、まったく学校の内申点には反映しないので、お母さんも困惑していたらしい。しかし彼のために適切な授業ができるシステムを学校に構築しようと思ってもどう考えても難しいわけで、公営文化施設がその受け皿になったのなら、それは十分に効果的な機能を発揮したのではないか。
そもそも文化施設には教育機能のほかに、資料収集、研究などの複数の機能があるわけで、理念のない安易なKPI設定は本当に危険。

専門家にしかわからない効用度を素人判断しているパターン

八ッ場ダムを「無駄の象徴」みたいに言っていた政権もあったけど、治水上はやはり必要だった。これは歴史が事後に証明した事実なので、当時の判断を一概には悪く言えないけど、少なくとも専門家にしか評価できないことを政治問題化したのは悪手だった。
「2位じゃだめなんですか」のスパコン事業も、1位を目指してブレイクスルーを見いださないと半導体事業の発展にならないわけで、単にぼちぼち性能の良いスパコンがほしいだけなら買ってくればアメリカも喜ぶ。「富嶽」も無事に世界1位を取れそうみたいだけど、結局日本からは半導体産業そのものがなくなってしまった*3

節約して利益を出しているつもりが成長を止めているパターン

製造業なら、10%生産効率を向上しても、10%直接利益が伸びることはあまりなくて、基本的に製造高が10%増えるだけで利益は数%の伸びしろにしかならないはず。で、10%「利益を出せ」と言われると、難易度の高い生産性の向上じゃなくて、部品原価を削る方にみんな走る。昔の日本はそのコストカットをしながら「ちょっとトンガった商品」を出していくのがとても上手だったと思うのだけど、今の高度な産業では部品はコモディティ化していてそんなに価格を削減できるものではないので、結局「研究開発費の不足」という形で表出することが多い。結果、商品の進化が止まり、結果的に商品が陳腐化して、価格崩壊を起こして、利益が出なくなる。残念。

本来は、その10%の空いたリソースで、新しいことをやらなければ、企業はそれ以上の成長ができない。作業が全体的に仕組み化されているので、生産効率を極限まで可視化できてしまうICT産業では、自由な研究開発に半強制的にリソースを当てるような仕組みがあったりするが、そうでもしないと、目の前の利益を先食いしようとする無言の同調圧力に、どうしても負けてしまうケースは多いのだと思う。

無駄そのものが存在意義だったはずのパターン

製造業ならプロダクト単位で反省すればいいのだけど、放送業のような特殊な業界ではもっとひどいことが起きる。放送業は「24時間×365日」の番組をプロダクトとして出していくことがどんな状況であろうと常に求め続けられるので、生産性を上げろ、ということは、つまり制作費の一律削減という形でしか反映されない。そもそも日本には地上基幹放送事業者(テレビ・ラジオ)がコミュニティFMを除いても201社もいるわけで*4、それ自体「無駄」と言ってしまえば存在意義がない。非常時にだけ「ラジオは災害時に役立つ」とか持ち上げられたところで、平時には「地域の文化を支えるメディア」であり、極論すれば地域産業の「遊びの部分」で食べさせてもらっている存在だ。無駄、は多様性、とも言える。テレビもラジオも、系列キー局から番組をもらっていれば、極端な話一番効率よく収益をあげることができる。しかしそれは201社放送局があること、地域に根ざしたメディアを育て、多様性を維持することの否定でしかない。結局そればっかりやっていると、あれ?災害時にも東京の報道が流れてるだけじゃん、といわれてしまった放送局も、2011年にはたくさんいた。

もちろんそうではない放送局もたくさんいる。大変な苦労と偶然の積み重ねで福島第一原発の爆発の瞬間の映像を押さえ、東京に送った地元テレビ局の奮闘と、素直にそれを喜べない悲しさを、私達メディア人はいつまでも記憶している*5

自分の経験に即して振り返る

この本で「京大的アホ」と表現されているのは、「この広大な人類の知見を一分野だけタコツボ的に学んでも、人類の知見を広げるに至ることはほぼ不可能だ、したがって、それ必要なん?と言われるようなことをいろいろといじくって、その偶発的なつながりから新しい知見を獲得することが戦術上有用だ」ということだと個人的には理解した。実際、合理主義者的に思われがちな自分だが、わりと無駄っぽく見えることを散々やって、その伏線を回収して生きてきた自覚がある。

小学校のとき、すでにかなり廃れていたアマチュア無線の免許をなんとなく取得してみたら、20年後になぜか放送局を建設する仕事をやることになった。だいたいアマチュア無線3級の知識の範囲でなんとかなった(普通ならないと思うけど、私の場合はそれと推論力でなんとか応用できた)。

高校まで理系だったのに、面白そうなので大学でマンガ文化を研究していたら、結果的にソーシャルメディア時代が訪れて、技術も文化もわかるので、メディア(媒体)がコミュニティを形成するということの本質を理解できた。

大学で著作権に関する寄附講座の運営スタッフをやってくれないかと言われて小遣い稼ぎにやっていたことを思い出して、腕試しにと思って知的財産管理技能士の資格をとってみたら、仕事でJASRACと大掛かりな交渉をする機会が突然やってきた。

卒業単位に全然必要ないのに教員免許を四苦八苦して取得したら、セミナーの講師とかやる機会が30代になってから劇的に増えて、あのとき授業という形で散々練習をした成果が発揮された。

せっかく大学という学問の時間を得ているのにバイトに精を出すのは基本的にもったいないと思うタイプだったけど、某衛星放送のコールセンターのバイトはちょっと興味があったのでやり込んでみたら、30代になってから自分でコールセンターを立ち上げることになった。

全然必要なわけではないのだけど、海外の版権ものを取得することに興味が突然湧いたので、仕事の傍らこそこそドイツのマンガの翻訳権の買取交渉と契約書作成をやっていたら、数年後にはレディ・ガガのマネージメントとライブの放送権の交渉を直接やる羽目になり(このときのライブはガガ的にはちょっとミスがあってあまり乗り気ではなく、交渉に成功したのは全世界で私だけだったらしい)、さらにその後には台湾企業との大規模な交渉も英語でやることになったのだけど、さすがにレディ・ガガと契約交渉したあとでは英文契約書も怖くなかった。

無駄だと思うところに、本質は隠れていないか

12月8日に文化放送が「焚き火の音をただ90分立体音響で流す特番」を放送する。
www.joqr.co.jp
こういう一見無駄っぽい深夜番組での挑戦ネタは、私も一時期FMの編成にいたころやっていたのだが、最近ではすっかりこういう特番も減ってきたような気がする。
文化放送がこの番組をやってみることには、たぶん直接的な経済的メリットはなんにもないんだけど、その背景は大変興味深い。

  • いわゆる聴取率調査週の直前に話題作りができた。
  • AMではなくワイドFMのステレオで聞いてください、と告知することで、ワイドFMの存在をアピールできた。

この2つは誰でも思いつくところだが、それ以外にも色々ある。

  • 文化放送はもともと、ラジオドラマの制作を得意としていて、音響効果専門のスタッフがいたぐらい力を入れていた。その技術継承になっているのではないか。
  • radiko聴取が比較的少ないと思われる文化放送にとって、「ステレオイヤホンで聞かれた場合の聴感上の特性」について研究する素材なのではないか。
  • 4K/8K時代において、オーディオメディアが次に進むべき道が本当にハイレゾなのか、立体音響みたいな昔からあるけどなかなかヒットしない分野なのか、コンテンツ付加価値としてどのように探るべきなのか。

とか、いろいろなことを考えているのではないかと思う。しかも「焚き火垂れ流し」というのは、2016年ごろから欧米で流行した「スローテレビ」というやつで*6、本来は「ホリデーシーズンにテレビを囲んで団らんをする」という体験を、この多メディア・個人メディア時代に取り戻そうという取り組みを元ネタにしている。

ラジオはテレビの登場以来ずっと「個人メディア」であって、しかもこの番組は「イヤホンで聞くことを推奨」している以上、現実の「団らん」にはならないわけだが、長時間、同じ空気感を同時共有することで何が起きるのか、というのはラジオの持つ本質的な力なので、図らずもテレビより先にタイムシフト視聴機能を公式に提供して、同時間体験を失いつつあるラジオにとって、古くて新しいチャレンジとも言える。

TBSラジオもScreenless Media Labs.の研究成果の一つとして、オーディオドラマをより高品位な表現として「Audio Movie(R)」としてブランド化することを試みている。これもかなり聴き応えがあるので、ぜひご一聴を。
audiomovie.jp

ただの無駄な遊びに見える「焚き火特番」に、ラジオが抱えている本質的な課題はたくさん埋もれているし、日常のルーチンの中で発見できない大局的な課題を考察することは、「無駄」とか、「余裕」を半ば強制的に作り出すことでしか、なかなかできない。AM局からこういう取り組みがどんどん出てくることに、FMの片隅にいる自分としては、大変な脅威を覚える。もはやAMとFMの違いなんて何もなくて、音声コンテンツの制作というフラットなフィールドに立つことを選ぶのなら、参入障壁はもはやなにもない。地上基幹放送局である必要すらない。


私が「放送のハード・ソフト分離経営の先にあること」を、ハードの側からこの数年来やってきたことが、無駄だったかどうかは歴史が証明してくれるでしょう。本質はそんなにシンプルなものではないと、私は思っています。

川崎市市民ミュージアム水没の報に触れてマンガ研究の未来を憂う

川崎市市民ミュージアムが水没し、戦前の漫画(と報道されているが、赤本、ポンチ絵の類を含むのだろう)を含む多数の資料が被災した模様、という非常に衝撃的なニュースが流れた。

www3.nhk.or.jp

ミュージアムは設立時から複製芸術全般を積極的に扱う、当時としては非常に先進的な方針の博物館兼美術館で、地方自治体の施設でありながら、全国のマンガ研究の中核的施設のひとつでもあった。私も学生時代に何度も訪れているし、学芸員の皆さんにもお世話になったので、たいへん心配…

しているのだが、もしかするとその学芸員さんたちはもうすでにいないのかもしれない。2017年に指定管理者制度が導入されて以来、学芸員の離職が相次いでいたようなのだ。日本マンガ学会の会報でもそれに気づくことができるような記事はなかった(私は購読会員を今も続けている)。二重に衝撃を受けた。

www.kanaloco.jp

日本のマンガ研究はまだ基礎すらできていない

クールジャパンとかなんとか言われて久しいが、日本マンガ学会が設立されたのが2001年。私が学生だった頃にはまだ論文もまともに集まらない状況で、大会も在野の研究者…ないし評論家、あるいは著述家の皆さん、マンガとは縁遠い学部でひっそりと論考を発表している先生方、出版業界の方々が玉石混交に「表現してみたもの」を並べているような状況だった。ここ最近は海外からの留学生がぐっと論文の水準を引き上げたような(ちょっと恥ずかしいけど)状況もあるけれど、まだまだ「学会」としての基礎固めには時間がかかりそうな状況のように思う。

マンガに学問なんているのかよ?という声は、当然学会設立以前からずーーーーっとある反応なのだが、ちゃんとした研究体制がないのに国の基幹・重点産業だとどうして言えるのか。諸外国からポルノ扱いされたときに、論理的に反論をできるだけのロジックがちゃんとあるか。この電子書籍時代に日本のマンガ産業が維持発展するために何が必要か、客観的に分析して文化庁に上申する有識者はいるのか。著作権法のアップデートにマンガ産業からきちんと意見を言うのはだれなのか。そもそもマンガは日本独自の文化とか、未だにそういうことを言っていていいのか(世界にはマンガ的表現が多様に存在するし、「マンガ」「マンファ」「漫画」「Cartoon」「BD」「Manga」「ポンチ絵」「赤本」といった単語は非常に慎重に使う必要があるというのが現在のマンガ研究者の認識。手塚治虫鳥獣戯画も、安易に「起源」とは呼ばない)。そしてなによりも、この文化を記録保存していくのは誰なのか。

日本のマンガ研究がなかなか発展していかない原因は、たぶん2つだとずっと思っている。それぞれ模索が続いているのだが、今回の水没被害は、その歪みというか、うまくいっていない感じを露呈したと思う。

研究者の就職先の不足

日本でマンガ研究を最も精力的に行っているのは京都精華大学で、日本マンガ学会の事務局も京都精華大学内にあるのだが、同大学はどちらかといえば「作家育成」のほうに力がかかっていて、国際的な研究機関としての色合いは(土地柄留学生はとても多いし、活発ではあるのだけど)正直そんなに濃くない。最近は学長が外国人になったこともあり(とても印象的なニュースだった)、多少変わったのかもしれないけど。その他、明治大学などにも研究機関はあるけれども、マンガを専門にした大学の研究職のポストは、正直言ってほとんどない。

同時に、マンガには資料収集・保存という重大なミッションがあって、かつ展示を行うことで文化イベントとして町おこしなどにつなげたいという社会的要請も強いので、学芸員として博物館・美術館に専門家が配置されることが期待されるのだけれども、これも非常にポストが少ない。川崎市市民ミュージアムは、その数少ない受け入れ場所だったが、自治体行政の効率化の荒波の中で、予算上維持しきれなかったというのが実態のようだ。確かにあのミュージアムは多機能すぎて若干緩慢とした印象もあるし、場所的にもあまりアクセスがよくないので(水没した原因もその立地にあると思うが)、来場者が伸び悩むのもわからなくはない。

資料の保存・受け入れ体制

国会図書館があるからそれでいいじゃん?と思われる方がいるかもしれないが、そうではない。

  • 国会図書館に保存されているマンガはカバーが外されてしまっている。図書館とはそういうものだが、マンガの場合、カバーアートも作品の一部なので、研究上重大な支障となる。
  • 国会図書館は残念ながら、マンガ雑誌の保存状態があまりよくないと言われている。紙質が独特な日本のマンガ雑誌はそもそも保管が難しいのだが、あまり資料として重要視されていなかった背景もあるらしい。
  • 国会図書館は当然「すべての本が1冊ずつ献本される」わけだが、残念ながらマンガの場合、版を重ねるごとに絵が書き換えられていたりすることが多い(特に手塚治虫)。その履歴をたどることが困難。
  • 同人誌などについても一部は献本されているらしいが、当然ほとんどは存在しない。
  • そもそも、マンガの分類について日本十進分類法には規定がない。書誌情報が十分に整備できていない(一部の専門図書館ではいわゆる漫画喫茶方式=著者名順でお茶を濁している)。
  • そんな中、電子出版されたマンガをどうするか、なんて問題も増えていたりする。
  • さらに頭が痛いのが高齢化するマンガ作家が寄贈したがっている原画の類で、特にスクリーントーンなどが貼られている原画は取り扱いが非常に難しいが、これは図書館のカバーする範囲ではない。

それに対して、京都国際マンガミュージアムという施設があるのだが、これは京都精華大学が運営する施設のひとつで、元が廃校になった小学校なので、資料保存機能としては完璧ではない。
明治大学米沢嘉博の収集物を受け入れ、先行的に「米沢嘉博記念図書館」を設置したり、日本初のマンガ図書館を作った内記稔夫の内記マンガ図書館の運営を引き継いだり熱心に取り組んでいるが、本来目標だった「東京国際マンガ図書館」は、2014年の完成目標に対して、まだ大きな進捗は見せていない。どれもこれも、2009年に民主党政権が「国営漫画喫茶」などと罵って計画を停止してしまった、国立メディア芸術総合センター計画の破綻が契機となって、高齢化しはじめたマンガ文化の初期の担い手たちが、その蒐集品をなんとか散逸させまいと、のたうち回った結果だ。
明治大学|東京国際マンガ図書館
図書館紹介 - 明治大学 現代マンガ図書館
国立メディア芸術総合センター - Wikipedia

こんなことをやっている場合ではないし、次々襲ってくる自然災害の中で、地方自治体の町おこしとか、いち私立大学の努力のレベルでは資料の保存・分析は進めようがない。とにかく、川崎市市民ミュージアムの被災については国難レベルの損害だと認識したうえで、文化庁には資料の修復に対する緊急の手当と、改めてのマンガ資料の収集体制に対する世論喚起を求めたい。


(追記 10/29)
公立美術館において開催される漫画、アニメ展に関する一考察 ──「富野由悠季の世界」展と「シド・ミード展 PROGRESSIONS TYO 2019」:キュレーターズノート|美術館・アート情報 artscape

富野展についてはその点、非常に画期的な取り組みであったことに触れておきたい。委細は上記リンク先に詳しいので省きます。


(追記 11/14)
寄付金の受付がはじまりました。

http://www.city.kawasaki.jp/250/page/0000112189.html

Apple (Retail) Store店頭でのパーソナルセットアップは廃止されている(2019年9月時点)

Macをはじめて買うという初心者に相談されたので、「(ぼくは使ったことないけど)Apple店頭の受け取りにしてパーソナルセットアップを受ければよいのでは」と勧めた。

www.macotakara.jp

ぼくは必要ないけど、こういうのが精神的にとても助かる人は多いと思うし、周囲にMacユーザーがいない場合なおさらだろう。

が、購入申し込みをオンラインで済ませた後、どうやってもこのサービスの申し込み方法がわからないので電話で問い合わせたところ、「最近廃止されました」という。

代替として、画面共有や電話、チャットなどでサポートする遠隔サービスがあるようだが、それじゃない感がすごかったのと、AppleでもECのサポート窓口ではこの変更についてよく把握していないので、こちらが期待している内容と紹介される内容の乖離でだいぶ混乱させてしまった模様。申し訳ないことをした。

この廃止について特に記載されているウェブサイトが発見できなかったので、つまんない内容で恐縮ですが、ブログにメモしておく次第。

天気の子。

f:id:gleam:20190804215427j:image


英題が「Weathering with you」だけど、これは「君と風化させる」じゃなくて、新海監督は「君と乗り越える」と訳して欲しいらしい。

 


「秒速五センチメートル」の発表試写にも仕事にかこつけて行ったし、種子島聖地巡礼した程度にはかぶれているので、彼がどのように「平成のセカイ系」を総括するのか、楽しみに観に行きました。あいちトリエンナーレのアレとかで東浩紀とかが総括してくれそうにもない状況だし。

 


以下軽いネタバレ。

 

 

 

セカイ系に必要な「きみとぼくの距離」を表すものとして、初期にはロケット、そのあとはひたすら電車と踏切、あるいはホームを多用してきた新海誠だけど、今回は線路を走っちゃったり、わりと電車は距離のメタファーに使われない。それでもRADWIMPSのMVはJR東全面協力でこれ以上ないロケで撮られてるし(よく探したなぁ)、山手線内を舞台にするとどうしても踏切は少ないし、代わりに使われる「距離の装置」が今回はフェリー。でも案外淡白な扱い。このへん新海節が発揮されないのは全体尺の問題なのか?

愛にできることはまだあるかい RADWIMPS MV - YouTube

 


セカイ系にも関わらずオトナがわりと味方についたりするので、車やバイクもよく出てきた。それでも今回は時間でも、速さでも、距離でもなく、「空とぼく」の距離と主人公は闘ってるので、横に移動できても距離は詰められない。縦横時間と全部使い切ったので、次にセカイ系作品を作るとしたら、パラレルワールドしかないな。(君の名は。って、あれ一応世界線は1つしかない前提ですよね?彼ら今回カメオで出てきたし。)

 


あ、いや、今回満を持してJ企が製作委員会に入ってるので、つぎも鉄道ネタは入ってくるんだろうか。J企がポケモン以外でアニメ制作に関わったのは珍しいと思うし、プロダクトプレイスメントにも汗をかいていたので、次回も頑張って欲しい。そういう健全な夏休み映画にも関わらず拳銃が無防備に出て来たり未成年をラブホに泊めて補導させたりするのは、STORYが頑張った成果なのだと思うけど、どういう意図で必要としたシーンなのかはちょっと掘り下げが足りなかったかもしれない。

 


主人公を中学生にしなければならなかった理由も少しわからなかった。親権で揉めてるシングルファザーと、親戚の女子大生のねーちゃんと対比させるのに、高校生だと自我が強すぎたんだろうか。まぁ、このへんのご都合感が観る人によって「どこかでやったエロゲの劇場版感」を醸したのだろうと思う。

 

 

以下重大なネタバレ。

 

 

 

基本的にセカイ系とは「世界と彼女どっちをとるのか」という基本的な構造を持つわけだが、今作は「彼女を取って東京が滅びるのに、わりとみんな普通に生活しており」、「お前のせいじゃない、深く考えるな」と周囲のオトナになだめられる、という意外な結末を迎える。「中2の世界=島から出てきたお前が観たトーキョーなんて井の中の蛙の世界でしかない」とはっきり提示してしまう。

 

水に沈んだトーキョーは、わりとあっさり、モノローグで「3年後」と処理されて提示される。セカンドインパクト後の旧東京を見慣れてしまっている僕らにはなんとなく「それでも日本って滅びないんだろうな」と受け入れられてしまうわけだが、「世界が、終わるのよ…」とリツコが絶望気味に語るサードインパクトとはだいぶ対比的なあっさり感。


上映前の特報で流れるシンエヴァの映像にはほんの一瞬しか碇シンジが出てこないのだけど、2020年6月、シンジくんが世界をもう一度滅ぼすのか、救うのかで、平成のセカイ系は本当の総括を迎えるのかもしれない。映画の主題歌でどんなに歌い尽くされても愛にできることはまだある、とRADWIMPSは歌うけど、失われたホゲ10年を生きてきた中2たちは、令和の時代にどんな絶望と距離を超えて、きみとぼくのセカイを救う「物語」を紡ぐのだろう。