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「文系と理系はなぜ分かれたのか」から考える自分、政治、防災


あけましておめでとうございます。
年末年始に何冊か本を読もうと買い込んだのですが、この一冊が見た目以上にいろんな示唆を含んでいて、行ったり来たりしながら読んでいるうちに仕事が始まってしまいそうなので、思ったことをメモします。この本は自分の行動原理のベースを補強してくれたし、今の日本の教育政策に対する強い違和感にも、重要な情報を網羅的に提供していました。いま高等教育過程にいる人も、企業の人事に関わっている人も、社会問題系のプロジェクトに関与している人も、僕と同じように「文理融合」を謳った大学を出てモヤモヤしている人も、みんな読んだらいいと思う。

「文系と理系はなぜ分かれたのか」隠岐さや香

HONZのレビューを参考に何冊か本を買ったのですが、この本を手にとったのは

  • 私自身が「教育人間科学部」という非常にあいまいな名前(残念ながら昨今の工学重視の政策の影響を受けて現存しない)の学部卒で
  • いまも業務上は「文系なのでちょっとわからないんですけど」という定型句を頻繁に使いながら、実際にはガッチガチのシステム工学系の防災プロジェクトのマネジメントをやっている
  • が、プロダクトは社会問題解決を意図しているので、プロダクトアウトではなくマーケットインな製品開発をするためには、多分に社会科学的なアプローチを必要としている

という背景を持っているからです(ここまで、すでに不用意にいろんな学問分野を分類する用語を使っていますが、それは本書を読むまでの自分がいかに整理されない状態であったか、ということの証左ということで)。

常にわたしのこれまでの生活において、文系・理系という言葉はつきまとってきましたし、面倒になって「芸術系(Arts)なので」と自称していた時期もあります。マンガ文化産業論(主に台湾・韓国の少女マンガ文化の形成と雑誌流通・編集者の関与)が主研究テーマだったので、一般的には「社会科学」に分類されると思うのですが、指導教官が美学(Aesthetics)を専門とする外国人だったので、「芸術系なので」自体は嘘ではないのです。高校在学中までは工業デザイナーになろうと思って、機械工学でも勉強するのがいいのかなと思っていたのですが、「理系」を断念する個人的な経験がありまして…それはまた別の話ですが、父親も「文転」を経験しているので、文化的な遺伝があるのかもしれません。

「文系」と「理系」という分け方は日本固有なのか

そもそも「文系」「理系」に相当する言葉が世界的にはどう扱われているのか、を本書の冒頭では相当丁寧にたどっているのですが、「人文社会」(Humanities and Social Sciences)、「理工医」(Science Technology and Medicine=STEM)という欧米の一般的な現代の分類、あるいは「STEAM」への流れ、などの説明を経て、そもそも「人間をバイアスの源泉と捉えるか、価値の源泉と捉えるか」という大きなアプローチの違いは学問分野として統一困難、という大枠に至ります。これは文理融合型の大学にいた人間にはなんとなく具体的な教授陣の衝突のシーンを思い出しながら理解できる話だと思います。視点の違いを乗り越えられると確信している人と、視点の違いこそが重要だという人の間での会話の成り立たなさはすごかった(回想)。

「教育人間科学部」という、どこで区切ればいいのかわからない学部名は、Education and Human Sciencesという取って付けたような訳語が用意されていて、私は当時「教育学部じゃ予算がつかないし、教育・教養学部じゃ時代錯誤だから、理系っぽい名前を無理やりつけたんだろうな、それにしても人間科学ってなんだか言い慣れない言葉だな」ぐらいにしか思っていなったんですが、どうやら「人文学」ないし「人文科学」と概ね呼ばれている(この2つにも派閥があるけど)ジャンルは、政治が宗教から確率論を用いた一般化や法則化を導入していく過程で、「道徳政治科学」ないし「道徳科学」といった枠組みから、「社会科学」(この言葉はフランス出自だそうだ)とか「経済学」という分類が生まれて、「それにそぐわないもの=個性記述的で、人間の文化に関するもの」、として「人文科学」という言葉がドイツ出自で生まれているらしい。

結局、「人文科学」と「社会科学」の境界は、宗教や思想の発展の歴史と強く結びついているので、国ごとに今も違う、と筆者は整理していて、

  • ドイツ語圏では「精神科学」が人文科学の意味で使われ、「精神」というドイツ固有の概念から外れる分野(社会学音楽学カルチュラル・スタディーズなど)が「文化科学」と区別して呼ばれる
  • フランス語圏では1920年代には「人文科学」あるいは「人間科学」という表現が定着しているが、絵画/彫刻などの芸術は人文科学と区別される
  • 英語圏では伝統的な古典語教育を意味する「Humanitics」が人文学の意味で使われ、「Science」という言葉はつかないし、社会科学は人文学と区別される

とまとめています(pp70-71)。このへんでやっと「教育人間科学部」という言葉と、訳語に対する違和感が理解できました。うちの教員陣、フランス系思想・文化の先生がたくさんいたので、たぶん「人間科学」で正解だったんだけど、Human Sciencesという直訳は、英語圏的にはちょっとおかしくて、英語圏の人の理解に直結させるには「教育・人文学・社会科学部(芸術もちょっと) Education, Humanitics, and Social Sciences (and Arts)」だったんだ。ちょうど在学中にカルチュラル・スタディーズの日本国内での流行がぶつかっていたので、余計混乱したきらいはある。

「道徳」という言葉をめぐって

同時に、「道徳」という科目の扱いについてなんとなく最近の日本政府の恣意的な運用に疑問を感じるけど、どこに違和感があるのか言語化できない、というモヤモヤは色んな人が抱えているとおもうのですが、結局「人間を価値観の源泉と捉えた学問の系譜」の中で、その基礎部分が宗教と切り離されていなかった時代に当然それが色んな国ではキリスト教と密接に結びついていて、日本ではそれが「蘭学」として丸呑みされる中で朱子学と無理やり結合されたりした中、戦時にそれが人為的に神道とまるごと入れ替えされた、という教育史がばっさりと説明されます。新書なのですごい勢いでざっくり説明されていて目が点になるんだけど、いまの「道徳」がなんとなく人為的ですごくインスタントな国粋主義になろうとしているのは、そレをなぞり直しているだけだから、というのがすごく理解しやすい。

筆者はまとめとして「民主主義や環境保護を自明のものとして受け入れるのは地理的にそう思うのが当然と感じる環境にいるだけ」だから、前提を疑わないとわかりあえない、と指摘しているのですが、「道徳」を「人類普遍の論理」みたいに曖昧にとらえていると、このへんが全く理解できない。高校の「倫理」なんかは、しっかり勉強すれば「世界は多様な価値観でできているし、その価値観は歴史で変化する」ということをちゃんと説明している科目だと思うのですが、なんでみんな、あんなにつまんなそうにしてるんだろう。わたし好きだったけどな(いまでも倫理だけは副読書を保存してる)。

なぜ日本は「理系」重視なのか

お恥ずかしながら全く知らなかったのだけど、日本は「総合大学に工学部を設置した世界で最初の国」だそうで(それが東大工学部)。日本が工業化を進めたかったから、という事情とともに、諸外国で工学が格下に見られていて、大学に工学が導入されるのが遅かったから(そして日本人にはそういうバイアスがなく、実学こそ必要、という評価が後押ししたから)、という事情らしい。そうなると、いまの文系冬の時代は一方で理解できるけど、そもそも工学を「格下」として学問ではなく徒弟制度で継承してきた歴史に近づいていくかのような、「学問ではなく、人材育成の場」としての学校を増やしていこうという日本の高等教育の政策方針は一体なんなんだろう。単に職域専門教育を「大学」と呼んでるだけ?

一方、「理系の女性が少ないのを増やそうとしているのはジェンダーフリーとか以前に単に人材不足を補いたい国の事情」ともバッサリ切っている筆者だけど、「女性が言語能力に優れて、数理処理では劣る」という、最近の入試問題で議論が噴出した説について、ものすごく丁寧に(たぶんこの問題が発生する少し前にこの本は出ているはずだけど)「概ね正しい」ことを資料で説明しています。一方それは単純な脳構造の違いなどの性差ではなく、期待される社会的役割に影響されていたり、世界的に機械化が進んで単純労働に近い職種が減っていく中で、その割を食っているのが主に低所得層の男性で、「女性が従来活躍していた分野に男性が流入せざるを得ない」という現象もある、という興味深い話も出てきます。
元来、数理分野では従来女性が活躍していたはずだけど、最近のコンピュータサイエンス系の学部の男性比率が世界的に高いのは「コンピュータゲームが男の子の遊びとして広がったからではないか」という指摘も面白かった。確かにNASAの計算が手計算だった時代には女性が活躍してて、IBMのコンピュータが入った後も、それを操っていたのは女性だった、という映画あったな最近。変な邦題になっちゃったけど。

機械学習」は理系なのか?

togetter.com
日本人はAIと機械学習の区別がついてない、という指摘が最近Buzzっていましたが、ここまでの議論を下敷きにすると、機械学習を「正解はないけど、人間の価値判断を積み重ねて学習させて、コンピュータにその判断を模倣させること」と狭義に言い換えれば(機械学習のすべてがそれではないことはわかっているけど)、定義上は「社会科学的なアプローチ」ということなのだろうなぁ、と思うわけです。
いまわたしがやっている防災分野でも、「AIを用いた防災」というバズワードがあって、何かこのジャンルにアイデアを欲している、という事情があるのですが、本来、気象学や地質学はガッチガチに物理学的なアプローチで、例えば機械学習を応用しようと思えば、それは「写真や歴史資料、ソーシャルメディアの投稿などの定量化の困難な資料から類推して、減災のための自治体の判断の助けにすること」などの補助的な用途のはずなわけです。
と、そういうアプローチの違いを理解しないまま「AIで気象を分析するぜ」みたいなことになると、本当にわけのわからない議論になる。そういう混乱、日本中でいろんなAI案件で発生している気がしていて、それこそを、「文系」…もとい、社会科学系を修めた人は整理すべき立場なんじゃないの?AIわかんないとか言ってる場合なの?と思ったり…おっと、話が脱線したようです。

話が発散しましたが、とても面白かったので、誰か読んだらこの本の話をしましょう。「文系と理系の通訳が自分の仕事」とざっくりこれまで言ってきましたが、ここから先、自分が何を取り組もうとしているのか、なんとなくつかめた一冊でした。

おまけ

文系学部解体 (角川新書)

文系学部解体 (角川新書)

わが学部が解体されて、教育学部に戻されるすこし前に出た本。結局、この大学には人文系を吸収できる学科がなかったので(経済・経営しかない)、数理系の先生たち以外は教育学部に残るか、総合系の大学院に移行するかしかなかったようです。総合系の学部って、在籍していた当初はその複雑さを理解しきれないまま、「なんとなく学びきれなかった、教えきれなかった」未消化な感じを残す事が多い、と筆者も経験を交えて語っているのですが、わたし自身は(当時は本当に未熟で、今もなお、教授陣が何を思って学部運営をしていたのか、計り知れないところはあるけど)「教養学部」でひとつひとつの蛸壺を覗いていくのではなく、複雑な課題がいりくんでいる現実社会をそのまま複雑なまま受け止めて、もがく経験ができる「総合系学部」は、問題を提起して、なんとか「食べられる形」の課題を抽出する、という学びの場として、これからも必要だと思うのだけどな…と常々思っています。